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「普通」という名の空虚な理想についてー『元女子高生、パパになる』杉山文野

元女子高生、パパになる (文春e-book)

元女子高生、パパになる (文春e-book)

取材したあとも、それだけで終わるのではなく、その後どうなさっているか気になる人がいる。
私にとってはこの方がそうだった。
杉山文野さん。
フェンシングの元日本代表で、性同一性障害(GIDと略す。現在では「性別違和」「性別不合」などとも呼ばれる)の男性だ。わかりやすくいうなら、トランスジェンダーFtMの男性、ということになるだろうか。
私がかれを知ったのは、かれの初著書『ダブルハッピネス』が発売された頃である。私は性同一性障害の取材の対象者を探していた。新宿二丁目のとあるオナベ・バーでふと「フミノちゃんなら(取材)いいんじゃない?」と、いわれたのである。紆余曲折があったが、スカイプで取材を行い、記事を書いた。それが2006年だった。
それから長い時間が流れ、Twitter経由でかれが子どもを育てているという記事を読んだ。
写真を見ると、当時はまだいくぶん残っていた女性らしさはもうとっくに消えうせ、髭を生やし、髪を短くして赤ちゃんを抱くかれは根っからの男性に見えた。お元気だったのだ、と思い、新刊書籍の棚にあったこの本を手に取った。

セーラー服を着ていた。
30歳で死のうと思っていた。

帯には、インパクトのあるコピーが付けられている。
少したじろぐほど、迫力と生々しさのある言葉である。
しかし、かれの人生においてこれはついて離れない実感だったに違いない。かれが彼女だったころの辛い前半生については『ダブルハッピネス』に詳しく書かれている。子どもの頃からの性別に対する違和感、スカートや生理への嫌悪感、そこからくる生きるうえでの困難。この本はマンガ化され、最近乙武洋匡氏により小説化されたり(『ヒゲとナプキン』)したため、トランスジェンダー、GID(特にFtM)について知られるきっかけとなった。「普通」が苦しい人の叫び。そんな本だった。
実際、トランスジェンダーの男性・女性の自殺率・自殺未遂率は異常なほど高い。
だからこそ「その後」がとても気になっていた。
大学院時代に本を出され、若くしてGIDアクティビストのように活動なさっていたので、その後生活者としてどのような人生を歩まれるのかが、とても勝手ながら気になっていた。大学院を卒業し、世界を旅し、就職を迎えたかれがどのような人と出会い、どのような経験をし、どのように今生きておられるかが、この本では語られている。


一番印象的なのは、パートナーとなる女性の家族の反応である。

「うちの子とあなたは住む世界が違うの。一生交わることはないから」
「あなたはあなたの世界で生きていきなさい」
「うちの娘はそっちじゃないんだから、変な世界に連れて行かないで」
「あなたがいい人だなんてのはわかってるのよ! でもそういう話じゃないの。あなたとうちの娘は住む世界が違うのよ。あなたはあなたで生きていけばいいじゃない。お願いだから、うちの娘を巻き込まないで!」

著書を読み、本人をあらかじめ知って好意的に接していた人でさえ、自分の娘がかれのパートナーになると聞いた途端に態度が変わる。哀しい話であるが、リアルな話である。
「住む世界が違う」「そっちじゃない」「変な世界」——かれが浴びせられたこれらの言葉を差別発言と片付けることは簡単だが、それは想像力と人生経験が足りない行為だ。20数年ものあいだ、手塩に掛けて育てた子が、自分の理解の及ばない世界に連れていかれるかのような不安を感じる親を、差別者と単純に断じられるような立場に、多くの人はない。
LGBT+という言葉が新聞や雑誌、ニュースなどで報道されることが多くなってきて、それに理解を示す人(「アライ」と呼ばれる)も増えてきた昨今ではあるが、実際自らの関係者(特に子の場合が顕著だろう)に話が及ぶと、それは嫌だ、困るという人が多いのは事実だ。LGBTQ+の存在を、「普通」の人々として尊重すべきであると理性では理解していても、感情がそれを拒否する。それを正直に口にした分、この母の態度は誠実だったとさえ言える。「普通」の世界に生きている、「普通」な自分たちには関わらないでほしい。その気持ちは差別的かもしれないが、正直な気持ちであって、本音だろう。
では、「普通である」ということは何なのだろうか。
「普通」というのは、こうあってほしい、こうありたいという姿であり、それはつまるところ「理想」の別名である。「普通」という枠から外れて苦しまないでほしい、哀しい思いをしないでほしい、という願いの結晶である。
しかしそれは枠に収まりきらない、普通でない人たちを苦しめる。そしてそれをすべて満たすことはたとえ普通の男女のカップルにだって難しいことなのではないか。普通でありたい、普通でなくてはいけないと考えて、婚活や妊活に苦しみ、悩む人は多い。
男らしさ・女らしさを押しつけられる世界は、誰にとっても生き苦しい。
LGBTQ+の人が苦しまない世の中というのは、ひいてはすべての人たちにとっても生きやすい世界なのではないだろうか。
「普通」は属する時代・文化・社会によっても変わる。永遠に不変な価値基準はどこにも存在しない。
そんな空虚なものに振り回されるよりは、身近な人の普通からはみだした部分を認める方がはるかに楽で、簡単なのではないだろうか。トランスジェンダーの人がそうであることとは別の場所で、みんなどこかがはみだしている。人を苦しめる「普通」なんて枠は捨ててしまおう。あなたはあなた、わたしはわたし。それだけでいい。
杉山文野さんは現在ゲイの友人から精子提供を受け、生まれた子をパートナーさんと育てておられるのだという。三人の親に育てられる子は、まったく「普通」ではないかもしれないが、きっと不幸ではないだろう。

ダブルハッピネス (講談社文庫)

ダブルハッピネス (講談社文庫)

  • 作者:杉山文野
  • 発売日: 2019/08/23
  • メディア: Kindle版
ダブルハッピネス

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ヒゲとナプキン

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