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突き刺さってきた他者——柳原孝敦『テクストとしての都市 メキシコDF』

テクストとしての都市 メキシコDF

テクストとしての都市 メキシコDF

  • 作者:柳原孝敦
  • 発売日: 2019/11/11
  • メディア: 単行本
長らく、メキシコ・シティはD.F.(デー・エフェ「メキシコ連邦首府」の略)と呼ばれていた。2016年にメキシコ・シティが首都の正式名称とされ、現在では虹色のカラフルなオブジェが「シウダー・デ・メヒコ」の名を誇示している。
私がメキシコに住んだのは、1998年夏から翌年の春にかけてだ。あとで躁鬱病であったことが判明するのだが、2年の秋頃からうつ状態になり、大学を休学したのが1998の4月。夏までの間にどうにか体調を戻した私だったが、その後9ヶ月以上もの空白期間を作ることが耐えられず、メキシコに語学留学することになった。
留学に関しては日墨交流奨学金などで正規留学する手もあったのだが、いかんせん精神病を患っていて、いつうつ状態になるかわからない身としては、公的制度を使って失敗したら迷惑がかかるし、出入り禁止になったりするのではないかと思って、受験はそもそもしなかった。
まず私が向かったのはクエルナバカ。語学学校がたくさんあり、一週間からでも学べる学校があったから、まずそこにかよって、ある程度話せるようになってからメキシコシティに移ろう、と思った。なので私がメキシコシティに住むようになったのは10月の後期セメスターからだ。大学のすぐそばにあるコピルコ地区の団地にあるひとつの建物のなかで、部屋貸しをしているコロンビア人の女性を見つけ、住むことになった。
私のメキシコ行きの理由は、当時絶大な人気を誇っていたサッカー選手ホルヘ・カンポス(当時UNAMプーマスに所属していた)と会うこと・見ることにあったから、大学都市以外のところで住む選択肢はなかった。大学都市はシティの中でも南部にあり、比較的安全なエリアだった。そのおかげで私はいつでもプーマスの練習所に行けたし、めでたくかれに見知ってもらうこともできたのである。
私はそれから半年をメキシコシティで過ごし、春の大学の始業に間に合うように帰国した。
その前もその後もメキシコには何度も行ったのだが、私にとってメキシコの熱い、思い出によって感傷的に湿った記憶はこの半年のことになる。クエルナバカには親しくなったホームステイの家族がいるので、よく行ったが、やはりメキシコらしさを感じるのは、メキシコシティ——そして当時はD.F.だった——だ。
あちこちにあるトペ、雨が降るとつかる道、乾いた空気と少しの高山病症状、綺麗とはいえない灰色の空、ペセロから流れてくるラジオの音、大学からのびる屋台通り。いろいろなものが蘇ってくる。
著者以外にもたくさんの研究者・知識人がメキシコに魅せられ、その滞在を記した。私はそれを読みながらあるところは頷き、あるところはもう違うなと思いながら、街を楽しんだ。私は南部に住んでいたので、チャプルテペック公園やソナロサにはほとんどいかなかった(友人が住んでいたので、メルセーにはよく行った)
ミゲル・アンヘル・デ・ケベド駅周辺の本屋と古本屋街、日曜に行われるサン・アンヘルの絵マーケット、観光客と屋台で賑わうコヨアカンのセントロ、サッカーを愛する人が集まるアスルスタジアムやオリンピックスタジアム、そしてアステカスタジアム……そんな場所が私を楽しませた。
オタクで、外に目が行っていなかった内向きな性格のせいでいじめられていた、いまでいう「陰キャ」だった私が初めて「欧米」でない外国がメキシコだった。日本での苦しみはまるでなくなり、幸運なことに強盗にもマフィアにも遭遇することなくすごせた私は、メキシコで生きることがとても楽しかった。私にとってあの時期が、あの場所が、青春だったのだと思う。
それはこの本の著者にとっても同じなのだろう。著者はシティの中のいくつかの街について語る。文豪・知識人が愛したD.F.。
たとえ時代が違ってもメキシコという都市の多層さは変わらず人を魅了するのだろう。さまざまな事情でメキシコについてのマイナスの情報があふれ、あの街を訪れる人の数が減ってしまっているのはとても哀しいことだ。
そして本書を読み終わったあと、タコス・アル・パストールが食べたくなってしょうがなくなるのだった。
あと、ボラーニョ読まなきゃ。