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文豪の青春の記録——和田茂樹編『漱石・子規往復書簡集』

漱石・子規往復書簡集 (岩波文庫)

漱石・子規往復書簡集 (岩波文庫)

  • 発売日: 2002/10/16
  • メディア: 文庫
明治の文豪夏目漱石と俳句や和歌で名を残した正岡子規。それぞれ非常に有名で人気のある作家であるが、この2人が同窓生であり、とても仲のいい友人同士だったということを知っている人はそう多くないのではないだろうか。
夏目漱石は慶応3年1月、慶応3年の9月に生まれている。
二人の交遊が始まったのは明治22年、2人が22歳の頃だった。2人が通っていた寄席の趣味をきっかけに仲良くなったといわれているが、子規が書いた『七草集』を回覧していたとき、漱石がそれに対し漢文で評を返したことから、お互いの文才に対し、尊敬と競争心を抱き始めたことからの友情のスタートだということがわかる。
往復書簡は、22歳の子規が喀血した直後、死を感じ悲観する子規を励ます漱石の手紙から始まる。

to live is the sole end of man!(生きることこそ人間の唯一の目的である)
帰ろふと泣かずに笑へ時鳥
聞かふとて誰も待たぬに時鳥

という一節が印象的だ。
2人は江戸時代が終わり、明治時代が始まる頃に生まれた。子規の祖父は藩の儒学者であったし、漱石もまた漢文・漢詩に通じていたから、初めは候文の、現代の私たちには少しわかりづらい文章で話は進む。

先は炎熱の候時候御厭ひなさるべくいづれ九月には海水にて真黒に相成りたる顔色を御覧に入べく、それまではアジュー。

しかし、文章を読んでみればこの2人の間の軽妙なやりとりがわかるだろう。
宛先と署名で冗談を言い合ったり、熱い文学論を戦わせたり、2人のやりとりは若気の至りもあるにせよ、親愛の情に満ち、お互いを刺激し合うよい友情を育んでいたことがわかる。
22歳から始まった子規の病気はだんだんと酷くなり、ついには出歩くことができなくなり、布団に寝たきりの生活が始まる。しかし子規の文学への情熱は止むことがなかった。日本の定型詩—和歌と俳句—の分析や研究に時間を費やし、その指導に務めた。
一方、一時期松山で子規と同居生活を送った漱石は、熊本へ、そしてイギリスへと移った。英文学の研究のために訪れたイギリスで、ノイローゼになりかけ、「狂った」と言われたこともある。
そんなときも往復書簡は続いた。
漱石は子規から学んだ俳句を送り、海外の様子を伝えた。子規はその添削を行いつつ、漱石が伝える、自らが行くことができない異郷の地の事柄を喜んだ。
しかし、漱石のノイローゼは次第に悪化し、返事もままならぬようになった。
同様に、子規は悪化する一方の病に対しての想いを吐露する。

僕ハモーダメニナッテシマッタ。毎日訳モナク号泣シテ居ルヨウナ次第ダ。
(中略)
イツカヨコシテクレタ君ノ手紙は非常ニ面白カッタ。

家族や弟子といった、身近な人に言うことのできない弱音を子規は遠く離れた漱石に語る。
この悲痛な手紙に、漱石は返事を送ることのできないまま、子規の弟子虚子によりかれの死を知る。

水の泡に消えぬものありて逝ける汝と留まる我とを繋ぐ。

漱石が子規の死を知って書いた追悼文章の冒頭である。
2人をつないだ文学の夢は、そののち文豪【夏目漱石】を生み出すこととなった。
有名な文豪たちが個人的に交わした若かりし頃の手紙を見るのは、隠された過去を垣間見るような後ろめたさを感じなくもない。暴露本を読むような気持ちであるが、往復書簡は、手紙に表れる2人のまっすぐな心根とお互いへの信頼と友情がたしかにあったことを現代の私たちに教えてくれる。
ちなみにこの本は岩波書店から文庫で出ているが、岩波書店の創始者岩波茂雄は漱石の弟子のひとりであり、『こころ』や夏目漱石全集を発行している。他にもたくさんの2人の著作を手軽な値段で読めるのが嬉しい。