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偉大なる父の死をめぐって——『父ガルシア=マルケスの思い出』ロドリゴ・ガルシア

この本はタイトルで解るとおり、ラテンアメリカ文学を代表する偉大な作家ガルシア=マルケスの臨終前後を記した本である。書いたのはその長子であり映画監督・作家であるロドリゴ・ガルシアである。
ガブリエル・ガルシア=マルケスはジャーナリストとして活動を開始し、その後ラテンアメリカでは四番目となるノーベル賞作家となる。『百年の孤独』『エレンディラ』『コレラの時代の愛』などで知られる作家である。
生まれはコロンビアだが、スペイン・メキシコに長く住み、ラテンアメリカで最も有名な作家のひとりだったのは間違いない。2014年4月にメキシコシティの自宅で死去した。享年87。ラテンアメリカの男性としては長く生きた方だといえるだろう。
数年前から認知症を患っており、記憶障害を持っており、もう新しい作品を書ける状態でないことは報道されていた。

しかし私もかれの訃報に触れたとき、驚きを感じずには居られなかった。
実は98年から99年にかけて私はメキシコに滞在していたのであるが、かれの住んでいた地域は私が住んでいたところとそれほど遠くはなかったため、勝手に親近感を持っており、ずっと長く生き、かき続ける人であるのだろうと思っていたからだった。かれの年齢も知らずに、もっと長く、もっと多く、物語を書いていく人なのだと。
かれはファンから「ガボ」と愛を込めて呼ばれ、ラテンアメリカをはじめ、多くの国の読者から愛されていた。
ロドリゴの話によると、その作品の人気のお陰で、ラテンアメリカでは「百年」「孤独」という言葉を使うことすら、陳腐に思われることを怖がって、忌避されているという。それはどれだけガボの代表作である『百年の孤独』が人口に膾炙しているかを示すエピソードだ。


ガルシア=マルケスは子どもたちに対してこのようなことを言っていたらしい。
「書かないで生きることができるなら、書くな」
「うまく書かれた話にまさるものは何もない」
しかしロドリゴは成長して映画監督・作家となった。映像という形をとってはいても「書く」方の人種であった。だからかれは偉大なる父と(母の)死を記録しようとして筆を執ったのだろう。
自分にとっての父が、あまりにも偉大で高名な作家であるがために、その死が私的なものではなく、公的な大きなものになっていく過程をロドリゴは丁寧にしかし淡々と描く。世界中の新聞がかれの生と死について語り、コロンビアとメキシコの大統領が参加するような追悼式がどのように行われたかが書かれる。それは大切な父が別のものになっていく過程だった。
しかしロドリゴは後半父の死のみならず、2020年に逝去した母(つまりはガブリエルにとっての妻である)メルセデスの死についても触れる。ロドリゴはそれを書き加えることで、父の死を再び自分たち家族の中のintima(親密な・内密な)な出来事に戻そうとしたのではないだろうか。


ラテンアメリカ文学の翻訳者として名高い旦敬介氏はこの本の訳者あとがきでこう記す。
「(ロドリゴは)『書かなければならない人』なんだから、この本で親の亡霊を追いはらって、もっと書いて、もっと撮ってもらいたい」と。
父の死に打ちひしがれている場合ではない。「生きて、語り伝える」(ガルシア=マルケスが生前残した前半生の自伝のタイトル)のがおまえの役割だろうと。
ガルシア=マルケスの本はラテンアメリカでは高校の必読書のように扱われ、読まない者はいないような本なのだそうだ。そして多くの若者が、これは自分の国の話だと錯覚するほどに、かれの作品群はラテンアメリカの人々にとって普遍的なものであったのだという。日本ではさすがにそれほどのショックを持って受け入れられてはいないが、かれが一番よく知られたラテンアメリカ文学作家だということは間違いない。


「オレが死んだら、何でも好きなようにしな」
ガルシア=マルケスは生前息子たちにそう言っていたという。
だからロドリゴは書いたのだ、父がこの世から切り離されていく哀しみを。
それを乗り越えたあと、かれは何を描きはじめるのだろう?
これはガブリエル・ガルシア=マルケスの死を描いた作品であり、同時にロドリゴ・ガルシア自身の生き方を描いた作品でもあるのだ。