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『帰れない山』パオロ・コニェッティ

 ミラノに住むピエトロは、山好きの両親の下に生まれ、毎年夏になるとグラーナ村で休暇を過ごす。そこで山暮らしの同じ歳のブルーノと仲良くなる。
 一人は都会と行ったり来たりしながら、もう一人はずっと山で暮らしながらも、幼馴染みの特別な存在として成長していく山男達ふたりを描く物語だ。

 ピエトロは始めは、父から山登りを学んだ。常に山頂へ到達することを望む父の山登りにくらべ、母は標高1000m位のところで、ゆったり山と接することを望む。一方ブルーノは、山で動物と接したり、川で魚を捕まえたり、沢登りをしたり、廃屋に入り込んで冒険まがいのことをしたりと、山では楽しみ方がいろいろあるのだ。
 「あそこに川が流れているのが見えるだろ? あの川の水が流れる時間だと仮定しよう。いまいる場所が現在だとしたら、未来はどっちだと思う?」理論学と数学の好きな父はよくこういう謎かけをピエトロに投げかける。「水が流れていくほうが未来だよ。あっちの下のほう」「そうじゃない」父はそう断言した。そののち、ブルーノと山で遊んだ後のある晩、なかなか寝つけなかったピエトロは山でのことを色々考えていたら、こう思い至った。

《川に棲む魚の視点で見ると、すべてのものが、山から流れてくるということだ。昆虫も、小枝も、木の葉も、なにもかも。だから、魚はいつも川上を見ているのだ。流されてくるものを待ちながら。川の、いまいる地点が現在なのだとしたら……と僕は考えた。過去は、すでに僕のところを流れ去った水、つまり下流へ向かう水だ。そこにはもう、僕のためのものはなにひとつない。それに対して未来は、上から流れてくる水だ。思いがけない喜びや危険をもたらす。ということは、過去は谷で、未来は山だ。あのとき父さんが期待していた答えは、これだったんだ。運命は、それがどんなものだろうと、僕たちの頭上の山に潜んでいる。》

 ピエトロは一つ一つの物事に、その意味や、目に見えていない何かを感じようとしているのだろうと私は感じた。やっぱり彼は都会人ではなく、自然の中に身を置いて感覚を研ぎ澄まし、多くを感じ取って生きる人なのだ。

 あるとき、ピエトロは、父との山登りを拒否し、それを境に父と距離を置くようになる。
だんだん、山での休暇にはピエトロは行かなくなり、ブルーノとも会えなくなった。子供だった一時代に終わりがやってきたのだ。

 話が動き出すのはその後だ。
 父が62歳で突然なくなり、そのとき31歳になっていたピエトロは、一人でグラーナ村へ向かった。父との距離をとったまま寄り添うことがなかったことを後悔しながらも仕方ないと思っていた。そして、その間にも両親はグラーナ村で休暇を過ごしていたのだが、山の家に父が残した山登りの記録をつけたマップから、父と一緒にあちこちの山にブルーノが登っていたことを知ったのだ。軽い嫉妬を覚えながらも、とてもうれしい気持ちでもあった。このことをきっかけに、ピエトロは山への思いを強めていく。ブルーノとの付き合いもとても強いものになっていくのだ。
 ミラノでドキュメンタリー映画作家として生きたいと思いながらもうまくいかずにいたピエトロは、山での生活に基盤が移る。しかし、ブルーノとは違い、グラーナ村が世界のすべてではなく、旅も好みとくにネパールの山に傾倒していく。

 運良くネパールでのドキュメンタリー映画をつくるという仕事をすることになったピエトロは、しばらくネパールに滞在することになる。そこで、ネパールの老人から八つの山の話を切り出された。実は、この本のイタリア語でのオリジナルタイトルは"Le Otto Montagne"であり、「八つの山」という意味である。その老人が話してくれた八つの山の話は、中央にそびえるかけがえのない、ものすごく高い山の山頂を極める者と、周囲にある八つの山をめぐる者と、どちらがより多くを学ぶのだろうかという問いの話だ。ネパールの人々の世界観を表わしたその図を地面に描きながら老人は話してくれた。すぐにささっと土をならして消してしまったが、ピエトロはその絵を一生忘れないだろうと思ったし、ブルーノに話してやろうと思ったのだ。

この図の描写を、私は非常に興味深いと思った。

《老人は小枝を拾い上げると、地面に円を描いた。書き慣れているらしく、ほぼ完璧な円だった。続いて円の内側に直径を表わす線を引いた。それから最初に線に直角に交わる線をもう一本引き、さらに直径を二等分するように三本目と四本目の線を引くと、八本のスポークがある車輪を思わせる図ができあがった。僕は内心、おなじ図形を書くために、自分だったらまず十字を描くだろうなと考えていた。円から描き始めるというのはアジア人らしい発想だ。》

 私は、イタリア語を学んでいることもあって、あえてイタリアの小説を手に取って読むことが多いのだが、語学を学んでいると、こういうちょっとした“なにげない”発想の違いの上に言葉や文化があって、つかみにくいちょっとしたズレがあることに気づく。この場合は、イタリア人に限らずヨーロッパの人々はピエトロの書き方と同じなのかもしれない。根本的に、発想に違いがあるということのわかりやすい例だとおもう。この元々持っている発想の違いは子供の時に身につけたものなのだろうか? でも、それは実は、外国語だからあるズレばかりなのではなくて、同国内であっても、彼らのような山の民やまたは海の民、または都会の人間の間でもそれぞれに感覚の違いはあるので、いろんな視点があるということに気づけることはおもしろいと思う。

 ピエトロもそうだが、ブルーノのような山男というのは、ある意味そのイメージ通りだがこうも確固たる自分を持つものなのだろうか?一見古いタイプの頑固な男のようにも見えるが、追求していかなければ自分の気が済まないという面では、案外“オタク”と同義かもしれないと思ったりして……(笑)。 久しぶりに、数十年にわたる友情物語というずっしりした物語を楽しめて充実感たっぷりの素敵な本でした。

 作者パオロ・コニェッティは1978年生まれ。ミラノ出身の都会っ子で、夏の休暇は両親と山で過ごしていたそうだ。大学では数学を専攻し、後に映画学校で学び、映像制作の仕事をしていた。この小説の前半部は作者自身が反映されているのだろう。数学が得意で緻密な思考面は、文章としてもその魅力を発揮している。何度もグラーナ村のモデルとなった山に通い情景を描写していったそうだ。
 また、翻訳者の言葉によると「美しいイタリア語で描写される壮大な自然に魅了される。彼と同世代で、ここまで見事なイタリア語を書ける作家はそれほど多くはない。……」それを翻訳者は伝えるべく、言葉を選び抜いた日本語で伝えてくれることに感謝です。